パートナーシップにおいて大切なこと

本日のメルマガより、抜粋してお届けします。

 

私たちは、一人では成しえなかったことが
人との協力関係で、一気に加速します。
10月1日は天秤座で新月です。
パートナーシップで、人生が希望と共に切り開かれていく
シーズンが本格的に始まります。これまで積み上げてきた、自分自身への信頼の貯金
それが今度は人との信頼関係へとなります。
自分への信頼貯金があればあるほどに
関係性において、拡大していきます。

 

人間関係においては、自立ができているか問われます
それには境界線が、きちんと引けているかですね。
たいがいの人間関係のトラブルは、境界線が問題で起こります。

 

依存が悪いわけではありません。
甘えたい時は、甘えたらいいんです。
だって人間だもの。
お互いさまですから。その人との関係性で、どこまで依存できるのか、境界線をはっきりさせておくことですね。
ただ私たちは毎瞬毎瞬、変化をします。
その境界線もがっちりするのではなく
シチェーションに応じて、柔軟であることが良いですね。

お互いに敬意と配慮があれば、たいがい自然に境界線は引けているはずですし。

 

「こうでなければいけない」関係性はありません。
それぞれの違い、個性を楽しみながらいきたいものですね。

時代はどんどん多様化し、それぞれの個性が光っていきます。
だからこそ違いを楽しめるし、新たなことを受け取り成長できるのですものね。

 

天秤座木星入りを機に天秤を手放しました

前回の覚醒メモ③の中で書いた、見える世界が変わった話。
私以前は、一点集中して世界を見ていたんですよね。
それって結局、世界を切り取りバラバラに見ていたことですよね。

そして、全体がそのまま見えるようになりました。
これは分離の世界観から、全体性の世界観へ移ったことということです。
これは観の目と言うそうですね。
相手が行動に移す前に、それを感じとる➾結果でなくて、状態(原因)を見ているのだと思います。

現実的に見え方が変わると、こころのあり方も変わります。
站椿(たんとう)における目線の使い方で、「ジャッジをしない事実をそのままに見る」俯瞰目線を育てるというものがあります。
まさにこの状態となっています。
ジャッジをしないこと、これはこの2年半でかなり変わってきていたのですが、そうであろうとしていたんです。

そうであろうとすること
そうである
これはかなり違いますね。

またこれにより平和な気持ちが、勝手に(笑)出てきちゃっているのですが
平和であろうとすること
平和である
これも違いますね。

「そうであろう」とすることは、悪いことではありませんが
「そうでなければならない」となり、苦しくなることもありますね。
状態、あり方(原因)により、結果は勝手にやってくるものです

それで、ジャッジをしないからといって、なんでもOKとは違うんですね。
区別はします。
違うことを非難するのでなく、違うことを受けとめるといった感じです。
はい、天秤を手放したようです。

これにより、感情が動かないかといったら、ばっちり動きます。
いや以前よりストレートに感じてしまいますね。
今まで思っていたよりも、感情に蓋をしていたようです。
どんな感情が出てきても、そこにジャッジが入らないということですね。

そしてこれは、先日の魚座の満月と、今の水星逆行中の作用かもしれませんが
その感情が動いたことから、その元のこころの傷にたどり着いていくのです。
(あえてトラウマという言葉は使いません)

それは子供の頃の記憶です。
ああ私この時のこれで傷ついて、こういう反応を自動でするようになっていたんだなと
自分のこころのクセ、それによる反応や行動のクセに気が付いています。

浄化と修復作用が働いていて、これによりまた生まれ直しをしているみたいです。

これは辛い作業ではなく、あったかい気持ちで取り組んでいます。
なんだろうね。
傷ついたことも結局は、愛なんだなって思っちゃうのです。
きっとどんな感情も、元は愛から派生しているのでしょうね。

「愛されたい」
「愛したい」
そんな想いなのでしょうね。

この浄化と修復作用は、22日まで続きそうです。
22日は秋分の日。
昼夜の差がほぼ等しくなり
太陽は天秤座入りをし、水星は順行に戻ります。

天秤を手放すこと
この一年間、木星が天秤座に滞在中は、大切なことかもしれません。
相手と何か(お金とか期待とか)を測っていたら、いろいろ大変なことになります。
自分の期待通りに応えてくれる相手など、妄想以外に存在しませんからね。

違いがあるから、予想外な化学反応が起こって楽しいです。
さてこの先、化学反応から何が生まれるのでしょうか。

覚醒メモ③ ~見える世界が変わる

>>覚醒メモ① ~ほどける松果体

>>覚醒メモ② ~質的転換

続きを書く前に、念のため・・・

「覚醒」って、何か特殊なもの(天使とか?)が見えたり、神的な声が聞こえたりなど、そういうことではないことは、ご存知ですよね。
辞書を引くと「目が覚めること、迷いから覚め過ちに気付くこと」とあります。

 

ここで私なりに定義しているものを、書いておきますね。

「覚醒とは、自分の状態、周りの環境を意識的に観察していること。

良い悪いなどフィルターを通してでなく、そのままを見ていること。

それぞれをジャッジすることなく、違いを楽しめること。

生き方を定めて、目的意識(志)を日常に反映していること。」

「覚醒」という言葉をいきなり使い始めちゃったので、書いておきました。

さっぱり(?)したところで続きです。

 

松果体を中心とした脳内の変化と同時に、見え方の変化もありました。

視点は一点に定めているけれど、同時に全体が見えるのです。(観の目というらしい)

今までいかに「顕微鏡で世界を覗くように」一点集中して見ていたか、ということに驚きました。

新たな見え方は、実は站椿における目線の訓練のひとつでもあります。

できていると思っていたら、できていなかったんです。

 

そして今でも、世界を鮮やかに映し出しています。

まるで2Dから3Dに変わったような

荒い画像から4Kに変わったような

全ての輪郭が際立ち、草木一本一本、葉まで立体的に見える

全てが同時にそのままにある、といった感じです。

とても新鮮な感動で、世界を見ています。

 

そしてこの見え方にシフトし、また脳内を内観すると、血液が後頭部へ集まっているんですよね。

今まではおでこの方に集まっていたのです。

この血液の流れは、非常に気持ちが良いのです。

同時に心の変化もありました。

穏やかで平和な気持ちが持続しています。

これがスピリチュアルでよく言う、ワンネス感覚というのでしょうか。

 

もちろん今まで大地と繋がる、丹田を中心としたどっしり安定感、安心感はありました。

そこへさらに輪をかけて、平和な思いが内側から涌き出るようなのです。

やはりおでこに血液が集まっていると、攻撃的になるんですよね。

意識的におでこに集中させようとすると、頭が混乱するんじゃないかってくらい、気持ちが悪いです。

後頭部への血液の流れの感覚を知ってしまうと、もう戻れないですね。

あまりにも気持ちが良いので。

平和な心持ち、血液の流れ、目線の使い方は連動していたんですね。

 

ここまで覚醒について、私に生じた変化と発見を書いてきました。

きっとこれで終わりではなく、始まりなのだと思います。

振り返って感じることは、体感を強く感じること、身体の変化、心の変化、人生の変化は、全てがセットだということです。

心だけ、身体だけとバラバラでは、変容しないということですね。

 

前回も書きましたが、私のプロセスは誰でも「安全に」覚醒にいたるものです。

内観を伴った「いのち」と結び付いたボディーワークの重要性は、身をもって感じるところでもあります。

今までの私の経験を共有していくこと

本気で変容し自分の人生を生きたい方へ、お渡ししていくこと

また新たに身を引き締める思いで、強く腹に落ちたのでした。